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悠深いのメロディー

おおげさ

わたしは、現代美術は、まるでわからない。
まるでわからないということが、非常に自分はニュートラルな凡庸人間であることが自覚できて、
ちょっとがっかりする。
わたしという人間は、とんがったところは、まるでない。
これは、美術のみであらず。
なにごとも。
まるすぎて、これまた、話にならない。
ゲイジュツなんてものは、自分だけで、各人あれこれ思っていればいい。
人は人の思いがあって、ゲイジュツ評論家の言っていることやら、なんやら、
へえ~、と、これまた人間観察。
感性は人それぞれあるので、
それを「○○である」と決め込み解説する専門家は、とてもパラドックスを抱えている。
お偉い先生は確信犯であると思うが、そうでなければ、えらいこと。
・・・
話はころりと変わって・・・
自分が新生児の時に、生まれた産院から取り違えられていたら?
しかも、「王子と乞食」のような、格段の両極端である親、背景だったら?
今より立派な家庭の子供だとわかった場合と、今よりぐんと落ちる家庭の子供だった場合。
さあ、どうする。
本来のところは、落ちる家庭出身なら、今までの人生、お得。
実際は、上の家庭出身なら、今までの人生、ちょっとした人生勉強。楽しい別の修行旅。
どっちにしても、プラス評価。
ということは、わたしは、今まで歩んでいた道のりは、自分にとって幸せ、満足しているということだ。
感謝もしている。
しかし、今後、本当の出生の、落ちるほうに移行させられるとしたら、困ったものだ。
急に、いままで関わりのなかった病人やら借金やらを一気に抱え、えらいことに。
上のほうに移行させられるのは、ウエルカム。喜んでお受けいたします。
つまり、上には行けても、下には下がれない。
人間、厄介なものだ。
幸福満足度を自分でレベルを徐々に上げてしまっている。
しかも、努力して、である。
努力して、贅沢になっているのか。
逆噴射。
そんなことなら、努力せず、向上を目指さないほうがよかったのか?
上を見ながら夢見て努力する、その過程が楽しい幸福な瞬間なのだから、
結果は案外、どうでもいいのかも。
プロセス、目標、夢こそ、大事なのかも。
山があるから登るんだ、である。
馬の目の前にぶらさげるニンジン。
「モチベーション」ともいう。
が、険しい山、登るのは良いけれど、降りるほうがもっと大変。
エネルギーは使い果たしているし、喜びも絶頂感を迎え、あとは、体力、気力がなくなる一方。
なので、下るエネルギーも少しは残しておかねば。
といいつつ、絶頂の喜びは、エネルギーが自然に長い間、下る分も含めてチャージされていることだろう。
誰も下ることまで考えて、登らない。
ひたすら頂上を目指すのみ。
その後、頂上から視界に広がるものをしっかり見下ろして、それから考える。
体力、気力もその頃には、衰え、年もとっている康泰旅行社
うまいぐあいになっている。
いつまでも、しがみついている「老醜」は、わたしの美学には反する。
みっともない姿をさらしたくない。
アンチエイジングなんていって、年寄りを年寄りらしくさせてくれない、扇動もあちこちに見られる亞洲知識管理學院
扇動されて、若くいられると自分で楽しく思えるのなら、それはそれで、けっこうなこと。
・・・
ブログ、昨日更新できなくて、せっかく今日更新できたというのに、この内容。
時間に追われて、やるべきことを抱えているので、焦っている。
いつもこんなことを書いているが、これも、ひとつの人生プロセス?
だとすると、もう少し、時間割を上手に組まなければいけないが、
そんな予定通りには、行かないのが、人生であるCCIBA
なんて、おおげさなことをいつも書いている・・・。
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